みかんいろの月

Kis-My-Ft2の横尾さんがダイスキデス。

推し活読書

最近、「推すこと」について考えさせられる本を立て続けに読んだので、記録として残しておきたいと思います。ネタバレになる部分もあると思いますので、未読の方はお気をつけください。

 

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宇佐見りん「推し、燃ゆ」

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 
推しが炎上した。ままならない人生を引きずり、祈るように推しを推す。そんなある日、推しがファンを殴った。(amazonより)
 
「推しを推すことがあたしの背骨」とか「推しだけがあたしを動かし、あたしに呼びかけ、あたしを許してくれる」とか、推しに対する感情が、推す人がいる私にとってリアルで、共感することばかりで、主人公あかりの痛みを私も感じながら読んだ。
 
あかりは推しを推すことで何とか生きることができていて、その実感は推しを持つ身としてとてもよくわかるのだけれど、あかりの母親や学校の先生からは、あかりのことは推しにうつつを抜かしているせいで成績も下がり、まともに生きていない人に見えるはずで、「推しのおかげで生きていける」と「推しのせいで生きていけない」はほとんど同義なのかもしれない。
 
「推す」という行為を描いたこの作品が、芥川賞を取るのは不思議な感じがする。本屋大賞とかならわかるけれど、芥川賞の結構お年を召した選考委員の方に、「推す」という感情が理解され、支持されたというのはすごいことだと思う。もちろん作者の読ませる力がすごいのだけれど、「推す」という行為が一般社会に浸透してきたからなのかな。社会人になるとお互い、何かの熱烈なファンであることを明かしたりはしないけれど、みんなそれぞれ、何か理性では説明のつかない、強烈な磁石で惹きつけられるように何かを好きになって、推していることを隠し持って生きていて、それが共感を呼ぶのだろうか。
 
ラスト、もう推すことができないことを実感として悟ったあかりが、感情が沸点に達し、ある行動を起こすのだけれど、無意識のうちに選んだものに、生活を立て直して生きていこうとする意志を感じる。結局、「推しがいなければ生きていけない」とか「推しが○○したら死ぬ」とか言ったところで、私たちは現実を生きていくしかない。推す人と推される人はそういうはかない関係であるとも言えるし、そうやって生きていく力をくれたのは推しであるのだから、強いつながりであるとも言えると思う。
 
推しの決断によって、突然推すことをやめさせられたあかりは、それでも、「やめないで」とすがることもせず、「あんなにお金や時間を使ったのに」と恨むこともしない。それが「推しをまるごと解釈する」あかりのスタンスであり、美しい推し方だと思った。もし、これが自分だったら・・・とは想像するのも怖いんだけど、この先、何があったとしても、「私が推したいから推す」。このことを絶対に忘れないでいたいと思う。
 
 
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木崎みつ子「コンジュジ」

 

コンジュジ (集英社文芸単行本)

コンジュジ (集英社文芸単行本)

 

二度も手首を切った父、我が子の誕生日に家を出て行った母。

小学生のせれなは、独り、あまりに過酷な現実を生きている。

寄る辺ない絶望のなか、忘れもしない1993年9月2日未明、彼女の人生に舞い降りたのは、伝説のロックスター・リアン。

その美しい人は、せれなの生きる理由のすべてとなって…(amazonより)

 

「推し、燃ゆ」は「推す」という行為自体がテーマだけれど、「コンジュジ」はそれがテーマではない。小説内でも「推す」という言葉は使われていないので、「推す」という言葉を使って、この小説を表現するのは適切でないかもしれない。でも、主人公のせれなは、今は亡きロックスター、リアンを「推す」ことによってつらい現実を生き延びている。私はせれなに比べたら、現実は平穏で、ただ自分で自分を袋小路に追い込んで勝手に行き詰まっているだけなんだけれど、それでもせれなの、現実をシャットアウトして、推しとの世界の中に入ってカギをかけるような感覚はとても共感できる。でもそれは、傍から見たら単なる「現実逃避」なのかもしれない。せれなはひどい現実を、美しい妄想で塗り替えていく。そうしなければ現実に押しつぶされてしまう。コロナ禍でエンターテイメントは不要不急とされ、ずいぶん制限されてしまったけれど、誰かの人生のどこかの部分においては、推しを推すことがまぎれもなく生きる理由そのものであるという事実を肯定されている気がした。
 
後半、せれなは知らないようにしてきた、推しの負の側面を知る。そして幻滅し、推すことをやめてしまう。生身の人間を推すとはそういうことだ。もっと知りたいのに、知れば知るほど相容れない部分が露わになってしまう。愛せば愛すほど、許せない部分が膨らんでいく。でも、せれなは推しの真実を知り、全てを受け入れる。強い力で推しに惹かれるその要因は、「私と同じだ!」というシンパシーであり、そのことによって慰められるからなのかもしれない。良い面でも悪い面でも。意識的にも無意識的にも。
 
ラストシーンはいろんな解釈が可能だと思うけれど、タイトルの「コンジュジ」の意味を知って、「結婚は人生の墓場」という警句が別の意味を持って思い浮かんだ。そしてキス担の皆様におかれましては、このラストシーンが、絶対、ある場面と重なると思います。だからこれはハッピーエンドなのだと思う。
 
 
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若林正恭「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」(文庫版)

 

飛行機の空席は残り1席――芸人として多忙を極める著者は、5日間の夏休み、何かに背中を押されるように一人キューバへと旅立った。クラシックカーの排ガス、革命、ヘミングウェイ、青いカリブ海……「日本と逆のシステム」の国の風景と、そこに生きる人々との交流に心ほぐされた頃、隠された旅の目的が明らかに――落涙必至のベストセラー紀行文。(amazonより)

 

オードリーの若林さんによるキューバとモンゴルとアイスランド旅行記若林さんらしい繊細な感性で綴られた本文も、もちろんすばらしいのだけれど、これは推し活とは関係なくて、ここで取り上げたいのは文庫版の解説文。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのHIP HOPユニット、Creepy NutsのDJ松永さんが書いているのだけれど、松永さんは10年以上も前からオードリーのオールナイトニッポンのリスナーであり、「若林さんのためなら犯罪以外は何でもする」と公言するぐらいの「若林推し」。今回の解説は、若林さんが松永さんに依頼したことから実現したもので、全篇公開ファンレターといえる内容。私は軽い気持ちで電車の中で読み始めて、涙が噴き出そうになって慌てて本を閉じた。そのぐらい、推しに対する愛とリスペクトと感謝と祈りに溢れていて、推す人を持つ身にとっては胸に迫る。
 
現実社会でどんなに傷ついても、推しがシェルターの中で待っていてくれるから、安全なシェルターの中で傷を癒やし、また現実に立ち向かっていく勇気を補充することができる。推しは生きるエネルギーであり、進むべき方向を照らす灯りであり、新しい世界を開いてくれる扉でもある。何者でもなかった松永さんが、若林さんに生かされ、導かれ、努力を続けてデビューし、DJの世界一にもなって、若林さんのいる場所にたどり着いて、愛と感謝を伝える。これほど美しい物語は他にない。推す人と推される人の理想的な関係に胸が震えました。
 
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3冊の本を読んで思うのはやっぱり推すことの尊さ。今、こんなに推せる人に出会えて、たくさん元気と勇気をもらえて、本当に幸せなことだと思う。推しを推すことは自分を救うことであると強く思いました。